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刀 : 武蔵剣工 源正雄

刀 : 武蔵剣工 源正雄 文久三年歳次癸亥三月・裏 蝦夷の南海宇賀浦乃砂鉄を以て武蔵国江戸に於て造りむさし野と名付(源清磨門人・鈴木正雄)彫有 / 二尺三寸一分 / 特別保存
/ 白鞘

登録証 :
種別 刀
長さ 二尺三寸一分
反り 四分
目釘穴 1個
銘文 表 文久三年歳次癸亥三月武蔵剣工 源正雄
裏 蝦夷の南海宇賀浦乃砂鉄を以て武蔵国江戸に於て造りむさし野と名付
登録 昭和29年5月6日 北海道 第7261号

特徴 :
先幅 2.36cm
元幅 3.12cm
元重 0.82g
重量 800g(ハバキ入り)

地鉄 小板目、冴え明るい
刃文 中小互の目交じり、沸深、砂流し、金筋入る

切っ先 中切っ先延びる
茎 生茎
彫 あり
鞘 白鞘(鞘書 / 寒山誌)

附属品 :
鑑定書 特別保存刀剣
拵 なし 
他無し 希望により資料コピー

鞘書 :
鈴木正雄作 函館打也 此銘「□・古」「□・稀」資料的候倣ふ高「□・足」(□は調中です)昭和三一年 寒山誌
彫 :指月布袋図 / 波動・樋中先 三ヶ月

 
説明 :
源正雄は鈴木次郎といい美濃出身で父は武将・飛騨守重行で大工、その子孫とある。
刀鍛冶に転じ江戸へ出て山浦清磨の門人となる。
嘉永五年には清人が入門、しかし正雄は既に独立しており、御徒町へ住し開業している。
銘は主に「源正雄」「武州住源正雄」「剣工源正雄」「武州住鈴木次郎源正雄」長銘 等
安政四年、幕府より命があり北海道に招かれている。
鈴木正雄はこの時代の刀工中では有数ともいえ、あまりにも流暢な草書体で銘を切る鏨使いでも知られている。
資料より江戸で製作しているという作品ながら登録証の時期、昭和29年には北海道にあった事になる。資料と銘文内容より東京登録と考えるのが自然ですが、
縁でもこれを逆算すると約80余年以内には江戸より北海道の郷土へ移動、持ち帰っていたと思われる。
やはり函館奉行所のお抱え工という有力刀工の名声。この所有愛刀家の方が「北海道打ち」を探したとものとも想像が出来、正雄の作品に強い所持意欲がある人物と思うと考え深い、喜びを感じます。
前後するが、本作は北海道の29年登録。資料では北海道函館に2年赴き江戸へ戻っている。
この北海道の出向意図は幕府が安政四年(1857)から北海道の函館に五稜郭の築城、亀田郡尻岸内村古武井に製鉄所の構築、そして当時のロシアの侵攻に備えて函館奉行より招かれた。
主に宇賀浦、尻内、吉岡の砂鉄で製作したとある。
本作は文久3年の製作。資料より活動をある程度繋げると「蝦夷、南海宇賀浦の砂鉄を使い」この作品のよう銘文より正雄の活動は日誌のように残されており、ある程度は把握が出来る。
銘文「江戸で打つ」そして銘後ろには「むさし野」と銘刻む。
これを当方が割愛頂いた旧所有者によると現在は(号)であり「むさし野」と説明を受けました。
正雄は没年が不明のようですが、慶應二年の作品を最後としている。2年後は明治だからこの頃に永眠したと考えられている。少なくとも3~4年前の晩年作
時代は癸亥(3年)。文久三年だと1863年製作。大きな出来事は7/2からの薩英戦争が起きた年。
感想 :
作品は鎬造、丸棟、反り浅め、身幅あり、元重ね厚く、中切っ先延び、茎は長め、彫りが施してあり、幕末の典型的な姿、豪壮ながら地鉄精美で冴え、優美で師清磨を思わせる刀です。
正雄は何点か見て来ましたが全て鍛え割れ、斑なく焼きが入り、一振り一振りが丁寧なので僕には美術品、完璧。高い技術と清磨一門、鑑定会などで数本が並ぶと正雄は群を抜いた一段違う作品となり「一級へ拘り」を感じて来ました。

鞘書は解読中です。過去の経年で墨の黒色が薄まったかも知れません。
判読できない部分があり、部分を後から善意で書き足しているかもとも思います。
寒山誌、昭和三十一年夏なのでかなり前に書かれている事から。

彫物:
画題は未だ不明ですが指月布袋図、寒山十得の応用のようで見ています。
しかし、得意の何かを思わせる鑑賞性高い彫が入る。
正雄の銘に長文、刀身彫の施される和歌などとても社会情勢、不安、先の将来を見据えたようなものがあるのでその一例なのかも知れません。
何れにしましても素晴らしい彫。恐らく西洋人とも思われる二人の人物が樋中で指先を見上げ、裏に返ると波動、その樋先に三ヶ月となる。
しばらく調べてわかりましたら校正、追記します。

販売価格 : 460万(税込) 委託品

刀 : 米澤住長運齋加藤八郎綱俊造 同 運寿斎正文太郎一秀・天保十二年二月日(合作品)新々刀

刀 : 米澤住長運齋加藤八郎綱俊造 同 運寿斎正文太郎一秀・天保十二年二月日(合作品)新々刀 / 二尺三寸六分 / 反り 六分 / 小杢目詰む、小互の目尖刃文、大小交互に匂い口締まる / 穴1 / 藤代松雄 鑑定 平成七年 / 江戸新々刀中、抜き出た備前伝を焼く作品があるという、是非見に来てください / 白鞘 / 問い合わせ下さい

刀 : 藤原是一精鍛・裏 文久二年八月日 新々刀 上久々作 重要刀剣第12回

刀 : 藤原是一精鍛・裏 文久二年八月日 新々刀 上久々作 重要刀剣第12回 /
所載 寒山刀剣講座三巻、江戸新刀名作集、刀剣と歴史745号 / 同工 重要刀剣指定 第一号目の一振 / 白鞘 / 備前伝の丁子傑作を焼いた最高傑作

寸法: 全て約
長さ 二尺三寸五分
反り 五分
先幅 2.26cm
元幅 3.16cm
元重ね 0.72cm
重量(ハバキなし)910g

特徴 :
本造庵棟、
地鉄 小板目よくつみ、地沸つく
刃文 丁子に互の目交じり、足よく入り、匂深く匂口よく冴え僅かに砂流しかかる。
帽子、中切っ先、湾たれて先尖りこころに小丸となる。
茎 生茎、先栗尻、鑢目大筋違、化粧かかり、目釘孔一。
彫、なし

説明:
七代目、江戸石堂。文政三年一月二十四日生、政太助のち助三郎。長運斎綱俊の次男(甥ともいう)、六代目の石堂是一の養子となり天保十二年十二月家督。麻布北新門前に住す。
運寿斎と号し、明治二年龍泉斎と改める。明治二十四年十一月二十四日没、72才。
一代限り五人扶持。
凛とした直刃、湾タレも力溢れており、見事に焼くが、備前伝の丁子、小沸出来を得意とした是一の作品は評価、人気が高い。石堂家中興の名手。
オーストリア、ウィーンで明治六年に開かれた万国博覧会に工芸品として
栗原信秀(三十八両三分、彫入り)石堂是一(三十一両)、固山宗次(二十七両)が選ばれ、二振りづつ製作している(信秀の研究より)。
当時、本国の威信を賭けて製作した三名中、一人という功績がある。

価格 : 600万(税込)