槍 肥州隈本住下坂

商品番号YA – 00001
商品名:槍銘 肥州隈本住下坂 / 未鑑定 / 奥州刀工の研究(附属) 著者・岡田孝夫 / 白鞘
001

brand name Hishyu-Kumamoto-jyu-Shimosaka
裏銘: 無 ( 慶長期前後 )
reverse name: will be made duaring Keichyo era
交付年月日  昭和 34 年 2 月 7 日 交付 福岡県教育委員会
Authorized Shouwa 34 nen 2gatsu 7 ka (1959)
鑑定 無
Classifed  non paper
長さ 13,2cm ( 四寸三分五厘 )
length ( part of blade) 13.2cm
反り – cm
bending dept – cm
目釘穴 1個
craft part hole 1 hole on the grip
元幅 2,08cm
blade front width
先幅 2,18cm
blade front width
元重 0.96cm
thickness
刃文  地鉄:小板目に小杢目を交えて流れる。末古刀特有のやや灰色で黒澄んだ地鉄色。刃文:細直刃、匂口締る、小沸付く、僅かに小足が入る。
hamon
帽子  先小丸 ( 刃区から切先まで約12cm )
boshi
はばき  無
habaki
茎  生茎 ( 茎の長さ 約20,8cm )
nakago
彫物 無
sculpture
販売価格 販売 ¥85.000 – (税込)(JPY)
price Reference


特徴
私見で下坂鍛冶の祖、下坂八郎左衛門の作品であり隈本に住した期間中の作で資料的に貴重な銘の槍だと思います。時代は慶長、新古境( 古刀、新刀の作風の変化時期 )、当時の実用武器には槍と鉄砲が群を抜いて使用していたという資料がある、まず時代は慶長期前後であり、主な出来事の一つとしては朝鮮出兵(慶長の役 1597前後~)でこの機会には下坂槍のかなり多く占め秀吉側の主力な武器として貢献した事が推測でき、関ヶ原の戦い(慶長五年九月十五日)でも下坂鍛冶は刀剣史のど真中で活躍したともいえその名を響かせた。余談、この下坂の地、近江国(滋賀県)は古くから名工を輩出、また史跡などや関わる資料も残るが近江は他産地に押され二の次的存在に扱われる気味がある、他の有名な地域の影になり案外理解されていない部分があると思われる。平安期以降、鎌倉期の記録の記上から延べると「承久記」には承久の乱により京都が戦火に見舞った時期に粟田口鍛冶は近江や丹波に避難したとあり国家の子、有国は近江国金田庄に住し佐々木六角家の鍛冶として召されているという。また来光包(正和)は生国備前、順慶長光の四男で上京し来国俊門人となり近江国坂本に住し中堂来と号したとも(本朝鍛冶考)。さらに相州正宗門人ともいいのちに養子になるともいう説の正宗十哲の筆頭格の貞宗(建武・彦四郎)、同時期に高木貞宗(正安)が前者で後者の相州貞宗の若打の同人とも、また二代作と考えられているが現在でも決していないが貞宗の二者らは共通し近江住、出身で一致し関連している、江州甘呂俊長(延文・彦根市甘呂、貞宗門とも)は近江の刀工、さらに新刀期に引き続くと本題の下坂鍛冶から康継、粟田口近江守忠綱、初代(近江出身→京都→姫路→大坂没)、津田近江守助直(高木村より大阪に移住)、越前(福井)または近江の出身ともいい虎徹(父の代まで彦根市長祖町)も近江に有縁とする説もある、さらに新々刀期、現代には名工、月山貞一(昇)の祖父、月山弥五郎貞一/旧名、塚本氏(嘉永二年の作品、14才)が誕生した彦根市須越町もある(縁あって泉州・大坂堺の刀匠月山弥八郎貞吉の養子として迎えられたといいこの時、年僅か7才であった)そして虎徹の出生地に立寄ったともいう。佐々木一峯、近江守久道、幕末に直胤、月山貞吉に学んだ堀井胤吉は近江の生まれである。近江国は刀剣産地、名工と刀剣史の礎を歩んでいる。これらの名工は各地に移住した事、生涯を近で没していない)

本作は「肥州隈本住下坂」とあり近年の資料に残るのは唯一「康継大鑑、昭和35年 出版」記載の茎画像、あと「近江刀の研究」押し型のみと思われ、極端ですが肥州隈本下坂の銘文は現存僅か数点であると思います。(私は本槍を含め1,2振りが存在するのみと考えています)、隈本在住の作は九州同田貫派と交流があった確実性は高くその門を叩いたと資料では解釈されるのである。造り込みは四角でやや太るも刃長短く、白鞘だが仮に拵えを五、六尺前後としたら槍の中では軽量、取回し優れ、結果的には奇襲性高い槍で、突く、仕掛ける、投げるなどといった捨て身で安価で量産性優れ簡素に使えたという意味で行き着いた作風、小振りだが恐ろしい兵力、肥後の菊池槍の考案にも近いが本作は形状から弓矢の矢をヒントにケラ首の頭に重心が付いておりそれを単純に槍に仕立てた。

・下坂鍛冶の歴史と移住・・・下坂は近年の資料によると下坂田の地名の略称が有力である、往古この地方を支配していた坂田君から江州坂田郡なる名称が生まれその後裔が二家に分かれて上坂田、下坂田となり、上坂田氏、下坂田氏と呼ばれるようになったとある。 その後に各地に移住した。先ず移住先には本作の八郎左衛門(祖)が慶長六年、田中吉政に召出され九州、筑後へ移住し、二百石を給せられている。同じく姉川合戦の真柄十郎左衛門の末子といわれる下坂甚兵衛(為康)は加藤嘉明にに召されて伊予国松山へ移住(さらに会津へ)。また一(市)左衛門(康継)も越前の結城秀康に抱えられ越前福井(北ノ庄)へ移住。この三派が江州下坂鍛冶で三つに分かれ、その後の越前下坂を筆等とし、越後下坂、讃州下坂、会州、伊予下坂、遠州下坂、城州下坂、筑後下坂、筑前下坂、信州下坂、紀州下坂、常州下坂、丹波下坂、阿州下坂、土州下坂・・これ程、複雑に下坂鍛冶は各地に分かれ活動、そのため下坂の銘文には多くの下坂銘と地名が記されている、僅か三十有余年にして下坂鍛冶は大発展を遂げ繁栄したのだ。一派が移住した理由は慶長七年頃と推測され、長浜城は天正十八年(1590)から慶長十一年(1606)まで廃城であった、下坂鍛冶はこの頃に移住し刀工がいなかったとの事である。背景としては江州出身の大名は天正十八年(小田原役)から慶長五年を機会に各地へ移封されており、戦国大名の大半は秀吉の長浜築城(天正三年頃)以来、当地に有縁の人が多かったので下原鍛冶らはこの有縁大名に召抱えられ全国的に離散した。

・下坂一派・・・刀鍛冶としてより槍鍛冶として世に認められていたが康継が越前に移住し刀製作を手掛けている、その後に下坂の刀の作品が見受けられている。他の下坂派では薙刀、短刀までしか製作していないとの事で全般に刀を製作したのが元和頃から、槍の注文が激減した事にもある。また一派は刀銘(刀匠銘)を殆どつけていない点は注目される(他、同田貫派にもあるようです、共に理解が遅れている)、慶長の後半から一(市)左衛門が「康継」を名乗るようになって以降、各下坂派でも個銘を使用したと思われる。

・下坂八郎左衛門・・・江州下坂の地において初めて鍛刀の基礎を開き、江戸時代を通じて他に類のないほど全国に一派の下坂鍛冶を発展させた元祖と考えられている。後半期には光広という銘を残している。

・康継(初代)・・・この下坂鍛冶の代表には、先ず「越前下坂」という越前に移住した若打ち初期銘でのちに家康から葵紋と「康」の一字を賜った江戸幕府の将軍家御用鍛冶となり改名後の刀銘は「康継、初代」が知られるが、その康継は江州下坂庄(滋賀県長浜市下坂浜)の出身で赤坂千十院鍛冶の広長の子、肥後大掾を受領ともいい、活躍時期は慶長頃からと確認されている。康継の作品が特に評価を受けるのは「大坂夏の陣」以後の事である、幕府は落城後焼失した大閤御物の名刀の数々を康継に命じて模作させている。この仕事で彼の技術は数段向上、そして特筆しておきたいのはその模作を通じて康継に一番多いのが「貞宗写」のもので、いかに郷土の先輩貞宗に私淑していたかを示す。そして康継銘は幕末まで続いている。

時代:江戸時代 / 慶長期前後

拵:なし
鍔:
縁頭:
柄巻:
目貫:
鞘:白鞘 あり