刀: 為大塚一信君 石堂運寿是一精鍛作之・安政五年戌午月日( 新々刀・上々作 )

刀: 為大塚一信君 石堂運寿是一精鍛作之・安政五年戌午月日( 新々刀・上々作 ) / 白鞘 / 第二十三回 重要刀剣 / 委託品

登録証
種別、刀
長さ、75.8cm
反り、1.3cm
目釘孔、1個

京都府 第 14161 号
昭和33年8月29日 交付

寸法:(すべて約)
先幅、2.1cm
元幅、2.9cm
元重、0.88cm
切先長、3.7cm
茎長さ、23.0cm、茎反りごく僅か
ハバキ、素赤地金着二重ハバキ

形状:(図譜より)
鎬造、庵棟、長寸、重ねも厚く、中切先

鍛:
小板目肌つみ、鎺元に僅かに大肌交じり、地沸厚くつく。

刃文:
丁子に互の目交じり、匂い深く、小沸よくつき、表下半砂流しかかる。

帽子:
直ぐに小丸。

彫物:
表裏に棒樋を掻き通す。

茎:
生ぶ、先栗尻、鑢目化粧、大筋違。目釘孔一、指表目釘孔の上に注文主銘、目釘孔の下刃方寄りに長銘があり、裏に同じく年紀がある。

付属:
鞘、白鞘(鞘書 薫山誌 花押)
鑑定書、第23回 重要刀剣(昭和50年7月1日指定)指定証、図譜

説明:

是一、七代目について
石堂是一(七代)、武蔵国。政太助または助三郎。
石堂運寿の号で有名ですが、他に龍泉斎、葵紋を切るものもある。
文政三年一月二十四日に長運斎綱俊の次男として生れ、六代目、是一の養子となり天保十二年十二月に家督。明治二十四年十一月二十四日没、72歳。
幕末の運寿是一は港区飯倉片町にあった、米沢藩の上杉家の中屋敷に叔父(刀工)の長運斎綱俊がいたので共に住んでいた。この辺り麻布、北新門前に住したという。

活躍時期
・工芸品、固山宗次、栗原信秀、石堂是一出品。江戸石堂、新々刀・上々作。
明治6年(1873年)にウィーンで開かれた万国博覧会(下記)に政府の選抜によって、七代目石堂是一、固山宗次、栗原信秀の三人が日本刀を出品し、刀工としての栄誉を授けられた。

・ウィーン万国博覧会に出品(ウイキペディアより)
1873年5月1日から10月31日までオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン中心部にあるリングシュトラーセ内・プラーター公園で、開催された国際博覧会である。
テーマは「文化と教育」。35ヶ国が参加し、会期中726万人が来場した。日本政府が初めて公式参加し、日本館が建設された。公園には、高さ84m、直径108mの大ドームを設けた面積16ヘクタールの鉄骨造の大パビリオンが建設され、産業宮、農業宮、美術館、皇帝パビリオン、その他194の国や企業のパビリオンが収容された。パビリオンの多くはスイスやチロルの住宅風に建設された。この時代の産業や新発明を反映する展示のほか、万博のテーマに沿って女性労働や育児政策に関するパビリオンも設けられた。会期中には国際貿易や特許などに関する国際会議も多数開催されたほか、欧州列強各国の首脳や皇族・王族も訪れ首脳会談も行われた。岩倉使節団も1873年(明治6年)6月にこの博覧会を見学しており、久米邦武編『米欧回覧実記』(1878年発行)にそのくわしい記録(一部風景銅版図入り)がある[1]。
会期中の観客は725万人が見込まれていたが、開幕直後に発生したウィーン証券取引所の暴落に端を発する大不況とコレラの流行で観客数はこれに届かなかった。しかし展覧会はウィーンの都市インフラ整備を大いに進めた。プラーター公園に残されていた大パビリオンは1937年に焼失し、現在は跡地にウィーン見本市会場(メッセ)が建つ。
このような時代の催しに参加し日本国より大義を果たしている。
石堂家、七代目より波乱な時代だが続く。
是一は二代目の長運斎綱俊の妹のトキと従兄妹結婚した。
養子にトキの弟の助太郎を迎えた。これが八代孝吉是一。
その子は九代目、秀一で廃刀令後に鉋鍛冶工として評価されていた。秀一の妹は鉋鍛冶の千代鶴是秀と結婚。複雑ながらも断絶の淵から救われた。この頃既に近代、昭和30年ともなる。
石堂家の墓は長運斎綱俊と並んで港区白金六丁目、興禅寺にある。石堂一家の世代は別で
品川区大崎の隆崇寺に残ったというが記録は消失となっている。
などと一派は連綿と続いた。

図譜より
石堂運寿是一は、羽前米沢の藩工である加藤長運斎綱俊の甥で、通称を政太郎と云い、後石堂家の七代目を継いで是一と称した。備前伝、相州伝を得意としている。刃文は丁子乱れが多いが、他の備前伝の諸作と異なって、匂い深く、小沸がつき、足がよく入り、丁子の中に互の目、尖り刃などが交じり、砂流しなどもかかるものである。この刀は沸出来の丁子刃で、砂流しのかかったもので得意の作風をよく示している。

本作は委託品となります。

販売希望価格: \ 4.500.000-